映画『FAKE』を観てブログを再開した

 わずか5つの記事からなる我がブログ。5つ目の記事を投稿してから1年が経っていた。

タイトルに「日記」とあるのに、1年ものあいだ一切の更新がなかった主たる理由が「面倒くさかったから」なのだから我ながら怠惰というほかないが、こうしてブログを再開したことは偉いじゃないですか。

 編集方法も半ば忘れている自分を、まず褒める。

……もちろん、毎日欠かさず書く方がよほど偉いと思うが。

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更生した不良が褒められることに対して、本当に偉いのはずっと真面目だった者で更生した不良はマイナスがゼロになったようなものだからちっとも偉くないのだと、更生した不良を高く評価するのは間違っているという言説を何度か耳にしたことがある。

確かに一理あると思うものの、それを主張する言葉が声高であったりすると、その理よりも「この人は不良が嫌いなんだ」ということがより強く伝わってきてしまう。客観的なふうな意見であっても、「ずっと真面目だった者」の側に立ったその人の主観から発せられた言葉だという出自が滲み出ているのだ。

それがいけないと言うわけじゃない。ただ、感情や立ち位置といったものを含んだ主観から発せられているということに無自覚な言葉が、聞いていて何となく恥ずかしいということだ。

 

 

 

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『FAKE』を観た。

森達也監督が佐村河内守を被写体にして撮ったドキュメンタリー映画である。

オウム真理教の広報副部長だった荒木浩を被写体にした『A』『A2』以来15年ぶりの監督作。佐村河内守の有名の理由である「ゴーストライター騒動」は「地下鉄サリン事件」と並べると暢気な響きにさえ聞こえるが、荒木浩佐村河内守に共通点があるとすればマスメディアの報道、レッテル貼りによって疲弊した人物であろう。

『FAKE』という直球なタイトルにスリリングな期待を持って観た。

はっきり言って滅茶苦茶面白いので全員観たらいいと思います。

 

マスメディアによってFAKE野郎と決めつけられ、カーテンを閉めきった部屋で身を隠すように妻と猫と暮らす佐村河内守。 彼は本当に「偽物」なのか。薄暗い部屋でカメラが捉える佐村河内守の真実とは……

ある意味では、そんな「真実」が映るシーンは一秒たりともこの映画にはない。

カメラという「監督の目」を通して伝えられる情報が客観的な真実を映したものであるなどという傲慢を森達也はもっていないのだ。

では森達也佐村河内守を撮ることで一体何を捉えようとしているのか。

ハンバーグを食べる佐村河内守。ベランダでタバコを吸う佐村河内守。自分が笑いものにされているテレビ番組を見る佐村河内守

佐村河内本人に向かって「あなたを信じている」とはっきり口にする森達也は、しかし佐村河内守の汚名をすすぐために映画を撮っているのでは決してないはずだ。

主観的な人間が客観的な真実を伝えることの不可能にどこまでも自覚的でありながら、それでもドキュメンタリーを撮る森達也が、ほとんど子供のような愚直さで追い求めているのはやはり「真実」なのだと思う。

いや、追い求めているというよりも、考えているという感じ。

考えている「真実」はもちろん佐村河内守の真実ではなくて、「真実って一体何だ」という問いだ。

映画を観ながら誘われるように「真実とはどういうことなんだ」と考えはじめると、すごくもやもやした気分になってくる。

騒動になるほど虚実を取り沙汰された男が絶えず登場しているスクリーンに目を凝らして、「ほんとうのこと」を見定めようとすればするほどピントがぼやけ、何を見ようとしているのかすらよくわからなくなってくる。何しろ、ある意味では真実など全くもって映っていない。

そんな映画に『FAKE』とタイトルを付けた監督がときおり出演者として登場すれば、何とも油断のならない顔をしている。

このもやもやした気分。「真実」がまるでふわふわと漂うゴーストのような曖昧なものになってしまったことが、しかしかえって生々しく感じられる。

私は、私の生きている世界というものが真偽、善悪、勝ち負けなどではっきりと二分出来ない曖昧で不確かなものだと、すでに知っていたのではなかったか。

 

曖昧な世界を曖昧なものとして示すのは誠実な態度だ。

映画には、佐村河内守にテレビ番組の出演依頼をしにくるテレビ局の人たちも登場する。私が受けた彼らの印象は不誠実で失礼、端的に言って「嫌なやつら」だ。

口先では中立の立場のような綺麗事を言って、しかし結局は彼らの意図する面白さに当てはめて利用したいだけなのだ。そのために単純化し、レッテルを貼る。

森達也は、佐村河内に番組出演してもらえるよう言葉を尽くすテレビ局の人たちをただ黙って撮っている。何か言葉で責めてくるわけではなくても、撮られているだけでものすごく怖いと思うのだが、テレビ局の人たちは森達也を知らないらしく、気の毒になるくらい醜悪な姿を晒している。

テレビ局の人たちをそんな「嫌なやつら」に映す視線は森達也のマスメディアへの批評だが、それが達成しているのもやはり主観的でしかあり得ないメディアという自覚があってこそである。

 

監督の、佐村河内守への視線はどんなものだったろう。

この映画を通して私が受けた佐村河内守の印象はといえば「しょうがない人」であり、「憎めない人」だ。つまり、すこし好きになった。

森達也から曲を作れと煽られたり、奥さんへの感謝を言葉にして声を詰まらせたりする。400人いた友達が一人もいなくなってしまったと言う。

凄まじい逆境にいる夫に寄り添うように日常を過ごす奥さんは、来客があればどんな客かによらず皆に自然にケーキをふるまう。なぜいまでも夫婦でい続けるのかと問われて、いまでも一緒にいたいからだと答える。

「僕は二人を撮りたいんだと思う」と監督が奥さんにつぶやくように言うシーンがある。

夫婦愛と、さらには監督と佐村河内守の信じ合うことで結ばれた絆に、私は感動していた。実際、映画の終盤(絶対に言わないでとポスターにも書いてあるので一応内容は言わないが)ではかなり泣いた。

それでも、この映画を観たあとでは、この映画に愛や絆が果たして映っていたのかどうかがわからない。すべては夫婦と猫一匹が暮らす日常の空間で起きたことであっても、それを写しているカメラの介入した特殊な日常であり、またそれを私に伝えるのは「森達也監督のドキュメンタリー映画」である。

 

映画を観終わっても、もやもやした気分はそのままだ。

しかし悪い気分でもない。もやもやしたものが私を圧倒し、人間の底知れない曖昧さに私は感動していた。

 曖昧さとは豊かさなのだ。そして、世界を豊かなものに感じて生きていくためには、単純化された嘘や真実といった見せかけに惑わされないよう注意深く目を凝らして、その見せかけの奥に隠れた「もやもやしたもの」をこそ見つめなくてはいけないのかもしれない。

 

監督が佐村河内守を撮り始めて、あ、これは映画になると確信した瞬間があったと想像する。空間に出来た小さな裂け目から深淵を覗いたような、もやもやしたものとの出会いだ。それは、コップに並々と注いだ豆乳を二杯続けて飲む佐村河内守を撮った瞬間だったんじゃないか。

夕食時、目の前に置かれた奥さんの手料理が美味しそうに湯気を立てているのに構わず、佐村河内守はひたすら豆乳を飲んでいる。

テーブルの向かいに座った奥さんはすでにハンバーグを食べ始めているが、佐村河内は豆乳を飲み終えると、また零れそうなほど並々とコップに注ぎ、他のものには目もくれず飲む。

いや、もちろん悪いことはないのだが、何かすごくざわざわした違和感、森達也は思わず声をかける。

「どうしたんですか」

奥さんが答える。

「いつもなんですよ」

「いつもですか、どうして」

佐村河内は答えた。

「好きなんです」

そうか、好きなのか。ならばそれ以上、聞くことはない。

 

本当に耳が聞こえていないのか。本当に作曲が出来るのか。

佐村河内守のわからなさは、そんな次元のことだけではないのだ。